これから個人的意見の殴り書きが始まります
絶賛被災中のわたしが死ぬ前に書いておきたい自己満足に過ぎません
ここには「正解」や「正しさ」はありませんのでどうか真に受けないようにしてください
この記事はエンターテイメントです
誰かと喧嘩する意図はありません
宗教感と友情感と恋愛感の共通点
これらの共通点はついつい人に押し付けちゃうことだと思ってます
しかし細かいところで違いがありまして
宗教感は良かれと思って(または使命感で)押し付けてしまい
友情感、恋愛感は気付かないうちに自分の中の常識を押し付けてしまいます
押し付けられる側の感じ方も異なります
宗教感を押し付けられた場合は今押し付けられてる!とすぐに気付きます
友情感を押し付けられた場合は何とも言えない気持ち悪さを感じます
恋愛感を押し付けられた場合は押し付けられたという感覚よりも先に相手への失望やミスマッチ感を感じるので押し付けられていることに気がつかない事が多々あります
恋愛感は無自覚に押し付け無自覚に押し付けられるので一番危ない気がします
宗教感の押し付け
日本人で宗教感の押し付けをやる人はごく少数派です
日本人はキリストの誕生日をお祝いし年末年始に神社に行き人が亡くなったらお坊さんを呼ぶくらいには宗教に拘ってる人が少ないのです
宗教に拘りがない人が宗教に拘りがある人に宗教を押し付けられると、すぐに押しつけがましさに気がつくことができます
早く気がつけば対策は容易になり、押し付ける側は嫌われることが多いので
宗教感の押し付けに関しては危険度は低いと思ってます
これ以上宗教の話をすると創価学会に対するヘイトスピーチしか出てこないのでこの辺にしておきましょう
友情感の押し付け
このあたりから押し付ける側も押し付けられる側も自覚ができなくなっていきます
わたしの友情感は
・リスクとリターンが同じなら全ての友人は平等に扱う
・親友は作るものではなく気がついたら親友になってるもの
・楽しければどうでもいい
というものです
理解できない考え方には
・友達に順位をつける
・親友になりましょう宣言
・親友だから〇〇やる
・親友だから〇〇くれ
があります
昔からこのようなワードを言われると身の毛がよだつような感覚がしましたが
その原因は押し付け感にあると思ってます
精神年齢が上がっていくにつれ
近い友情感を持った人同士でしか楽しめなくなってくるので
友情感を押し付けられる事自体が減っていきます
あまりにもぶっ飛んだ友情感を持っていれば自然と友達が減り孤立します
なので友情感の押し付けに関しても危険度はあまり高くないように思えます
恋愛感の押し付け
これが一番危ないと思います
日本では男女1:1で結婚することが一般的なので、お付き合いも1:1でするのが一般的です
宗教感の押し付けや友情感の押し付けと違い
1:1であるが故に押し付けられる側は全ての押し付けを一手に引き受けることになります
また、結婚していることやお付き合いをしていることがステータスになることが災いし
パートナーを失うことへの恐怖心から
押し付けられている感覚が麻痺します
また宗教感、友情感との最大の違いは
人の数だけ恋愛感があり種類が多すぎる
という点です
メンヘラというワード一つをとっても
人の数だけメンヘラがあるので
カテゴライズが困難なのです
創価学会やエホバの証人のように簡単にカテゴライズができれば押し付けられないように対策を練ることは容易ですが
恋愛感を押し付けられないための対策は非常に困難です
わたしが恋愛感の押し付けに対して取っている対策は
・そもそも恋愛しない
・恋愛対象にされないよう振る舞う
というややヤケクソ気味なものです
宗教感の押し付けと友情感の押し付けで散々嫌な思いをしたわたしは恋愛感まで押し付けられて再三嫌な思いをしたくはありません
そもそも沢山の人間がいる中から1人選んでお付き合いする、結婚する
そういう構造自体が
わたしが大嫌いな友情感である
・友達に順位をつけること
・親友になりましょう宣言
に酷似しているのです
押し付けるなという友情感や恋愛感もまた押し付けの一種であることはわかっています
だからわたしにとれる方法は孤立することしかありません
これがわたしが女性を苦手とする理由の一つなのだと思っています